最近、自殺のニュースをよく目にします。
どうしてこんなにも生きづらくなってしまったんでしょうね。
どこでも競争が激しくて、効率的に何かをしないといけないような風潮がいっそう生きづらさに拍車をかけているような気がします。
運良く、どこかに就職できても、そこで一緒に働く人たちが変な人だったら、人間関係のストレスですぐにやめたくなりますよね。
また、その会社に行くためには毎日猛烈な満員電車に乗らないといけない。
つらいですね、これ、ほんとに。
今の時代はこれまでの生き方が通用しないような気がします(きっと多くの人が感じていることではないでしょうか?)。
そもそもなんですが、今の世の中って、才能がある人は何かに引っ張り上げられてもらって経済的にも裕福になり、才能がない人は底辺をうろうろするしかないのかな、って感じがしませんか。
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競争が激しくてつらい
あまりにも競争が激しくて、さらにはデジタル機器の進歩がすさまじくて、人間がついていけないような気がします(そんな気はしませんか?)
何か輝かしいものを手に入れるためには、誰かに(なにかに)選ばれないといけません。
ただ、そういうところは競争が激しいですし、だいたいが選ばれませんよね。
それにたいして才能がない人がだいたい(自分をふくめて)でしょうから、選ばれるなんてはっきり言って、奇跡です(倍率5倍とかでも選ばれる気がしない)。
選ばれない人生が、ある意味では普通なのかもしれません。
選ばれない人生を、受け入れて生きる。
これをおだやかな心を持って生きる。
言うのは簡単ですが、やはり人間はどこかで「何かに、誰かに選ばれたい」という承認欲求があり、それが生きる上での悩みの種となります。
生きている限り、悩み・不安はつきません。
しかも、それは歳を重ねるとどんどん増えていきます。
現代での不安まとめ
競争をして、仕事を得て、お金を稼いで……っていう生き方は疲れましたね。
しかし、上記のなにかしらに携わらないと生きていけないわけです。
困りました。
とりあえず自分は食べる量が少なくてすむ体なので、食べるために猛烈に働かないといけないという考えはあまりないです。
今はもう「不食」を本気ではじめようと思っています。
「不食」という才能は(もしかしたら)あるのかもしれない。
不食というのは、少食の凡人が唯一発揮できる才能なのかなと最近は考えるようになってきました。
自分が食べたいと思うときは、だいたい不安になったときとかさみしくなったときとかです。
おなかが空いたからという理由で食べることがほとんどないです。
感情の乱れがなくなったら、不食ができそうな気がします(社会は人々を不安にさせて、食欲をわかせて、仕事をするように仕向けている)。
もう食べるために働くとか、したくないです。
自分はとくに目立った才能がないようなので、何もしないことが自分のためにも、社会のためにもいちばんいいことだなと感じています。
生きているかぎり、「何もしない」を1番したい。
生産性のない散歩をして、生産性のない読書をして、生産性のない好きなことをしたい。
では、そのためにはどうすればいいのか。
理想と考える「何もしない」生き方
■基本的に、何もしない(寝そべり族)
■定住せず、最低限の荷物で生きる(カプセルホテルを転々とする。リュックに荷物をまとめる。荷物は定額のレンタル倉庫に預けておく)
■仕事を極力しない(今は面接なし、履歴書なしでできるバイトがあるらしい。これだったら簡単そうで、最低限のお金を得られそう。タイミー、LINEスキマニとか)
■お金とは最低限の付き合いをする(ベーシックインカムの実現を希望)。
■食べるのをほぼやめる(不食。体が何かを食べたいと感じたときは、バナナ1本、りんご1つ、焼き芋1本くらいでいい)
■ブログはなるべく、自分のためだけに書く。思考の整理のためのツールとして(利益とか考えない、なるべく)
■創造性や生産性を追い求めない
■毎日足を使って、1キロどこかへ移動する。
■やることはサイコロで決める(意思決定の回避。イェール大学の成田さんも、一時期、サイコロでやることを決めていたらしい)
■自然を毎日愛でる。
■いつ死んでもかまわない、という人生観を持つ。
この生き方だと、ただ移動して、ぼーっとして最低限生きているだけ。
気楽です。
誰からも期待されていないけど、気楽。
必要な分のお金を少しの労力で稼ぐ。
少食という才能があれば、誰でもできそう。
この生き方は結婚もできないでしょうし、家も持てないでしょう。
ですが、ゆとりはあります。
結婚とか家とかをほしがると、猛烈に仕事をしないといけないですから、無理な人はきっと無理でしょう。
自分は100%無理です。
もう”生きのびることそのものが仕事”みたいな状態が理想です。
生きること以上にたいせつなことってなんだろうって、最近思います。
生きることを最優先にするのなら、生きるのをやめるたくなるようなことを、ひとつずつ排除していくしかないです。
もう誰かの目を気にせず、自分が背伸びせずできる生き方を模索しないといけない時代になっているような気がします。
誰かに、何かに選ばれなくても、問題ない。
自分で自分自身の行動を選び、社会に認められない非生産的な趣味を自分のためだけに、自分を満足させるためだけにする。
そんな生き方をすることが心の平穏につながる気がします。
→タイミーで軽作業バイトをやってみた感想(メリットとデメリットまとめ)
選ばれなくても選んだ未来
BUMP OF CHICKENの『GO』という曲にこんな歌詞があります。
とても素晴らしい日になるよ
選ばれなくても選んだ未来
ここまで繋いだ足跡が
後ろから声を揃えて歌う
BUMP OF CHICKENの『GO』より
……何かに選ばれなくても、人はなんとか生きていかないといけません。
「選ばれない」というのは、つらさがあります。
ただ、選ばれなかった人も、”何か”を選んで生きていきます。
そのことを、歌ってくれているのが上記の歌詞です。
“ここまで繋いだ足跡が後ろから声を揃えて歌う“
理想の道を残念ながら歩けなかったとき、うまくはいかなかったけれども、これまで歩いてきた過去が、ひそかに自分を応援してくれている。
そのことに気づかせてくれるすばらしい歌詞です。
選ばれたいけど、選ばれない……つらい!
選ばれなくてつらかった過去が静かに、何もない今の自分を応援してくれている。
そんな複雑な心境のときに、この歌詞を思い出してみてください。
現代を穏やかに生きるには、承認欲求を手放す・捨てることが大切
承認欲求。
認められたいという願望は誰にでもあるかと思います。
ただ、SNSで「いいね」を押されても、それは一時的で、結局はなかなか満たされずもやもやしてしまうのが現代なのではないでしょうか。
現代では誰もが認められたい!と自己表現をしようとします。
しかし、現在はみんなが自分の承認欲求を満たそうとしていて、誰かを承認している暇なんてない。
ただ、才能のある人は人が自然と注目してくれるはずなので、承認欲求が満たされていくでしょう。
けれど才能のない普通の人は、誰からも見てもらえないし、認めてもらえない……。
じゃあ、誰がそういう人を認めてあげるかということになります。
結局、自分で自分を認める。
才能のない、とりえのない自分を自分で肯定するということになるかと思います。
なかなか孤独な作業です。
才能のない自分が、才能のない自分を認める。
たとえば、趣味でボトリウム(小さな瓶の中に、水草や石を敷き詰めて魚を入れて自分だけの水族館をつくること)をしているとします。
趣味ですから、誰かのためではなく、自分が楽しいと思えればそれでOKのはずです。
しかし、その趣味が上達してくると、それを誰かに見てもらいたい! あわよくばバズってその道のプロになれるかもしれない! ……みたいな欲が出てくるかもしれません。
こうなったらもうそれは、承認欲求に振り回される趣味になってしまいます。
そうならないように、趣味は自分が楽しければOKと考える。
自分が好きでやっているんだから、誰かに認めてもらえなくてもいいじゃないか。
人生のいたるところに、承認欲求はひそんでいて、それを手放す・捨てることが現代で平穏な人生をする上では、必要という気がします。
まとめ
そもそも、どうして何かをしないといけないのでしょうね。
もう立派な社会があるわけで、誰もが安全に生きていけます。
これ以上のものを求める必要なんて、どこにもないように感じます。
何かに選ばれるために、何かを作り出すために、みんなで競争するのも疲れましたよね?
自分は最低限、散歩をしたり、読書をしたり、昼寝をしたりするだけで自分はじゅうぶん幸せです。
いまあるものをうまく活用するだけでじゅうぶん幸せです。
あと、人は死ぬことを恐れすぎているな、と最近は感じます。
死にたくないから、猛烈にお金を持って、いまのポジションや地位にしがみついて、安心を得ているような気がします(なんで80歳をすぎたおじいさんクラスの政治家が国トップの重要なポジションについているんだ?)。
もう地球には人間が多すぎるし、まあ、どこかでだめになったらそれはそれでしかたない、と思います。
それくらいの”あきらめ”がどこかにないと、生きていけない。
『年収90万円でハッピーライフ』の大原さんみたいに、誰もが低年収で自分の居心地の良さを追求する生き方を模索したら社会はもっとよくなるのではないでしょうか。
ものを捨てたり、人間関係を最小限にしたり、欲を最小限にしたり、まずはこのあたりから取り組み、自分の理想をちゃんとあぶり出すことからはじめてみようと個人的には思っています。
あと、そろそろ人間に鉄道自殺以外の、公式な死の道(安楽死)をつくる時期にさしかかっているのかな、と感じます。
これについてもそのうち考えてみます。
・定住している場所を失うのではないかという不安
・仕事を失う(もしくは得られないのではないか)という不安
・仕事を得るまでのハードルが高くて何もできる気がしない(履歴を書いたり、面接を受けたり)
・そもそも、もうこの世界でやりたいことがないのに生きていないといけないという悩み
・何かをやって、成長しないといけないのではないかという謎の焦り
・やりたいことが見つかっても、それを仕事にするまでの道のりを考えるとめまいがする……というかできる気がしない。
・何かで認められないという承認欲求に振り回されてしまう
・人生100年時代というゴールの見えないマラソンのような人生がつらい