村上春樹の小説が好きな村上主義者です。
ハルキストではないです。
村上主義者です。
初めて読んでから15年くらい、村上春樹の作品を読み続けています。
村上春樹さん自身が「村上春樹のファンは、ハルキストではなく、村上主義者で」みたいな発言をされていたので、ここでは「村上主義者」としました。
村上春樹作品を最初に読んだときの感想は、ストーリーがよくわからない……でした。
たぶん、多くの方がその感想を持つのではないでしょうか。
僕もそうでした。そして・・・いまでも、やはりその感想を持ちます。
結局のところ、何度読んでも、ストーリーは完璧にはわからない・・・
でも、村上春樹作品ばかりを手に取り続けてしまいます。
なぜか?
今回は、その理由を考えてみました。
もくじ(各リンクから移動できます)
結局のところ、村上春樹の文章がひたすら美しい
村上春樹の作品は文章が美しいのです。
これが僕が村上春樹を読みたくなるいちばんの理由です。
誰もが知っている簡単な言葉を使い、誰もが思いつかなかった新しい言葉の組み合わせを、読者に提示しているように思います。
どうしてこの登場人物はこういう行動をとるのかがわからなくても、作品のなかでその理由が明確に語られなくても、それはそれでいいんです。
ストーリーを支える文章が美しければ、OKなのです。読んでいて心地がいい。
文章の美術館にいるようなイメージなのです。
結局のところ、村上春樹の文章がいちばん読みやすい
僕が好きな作品のひとつに、『スプートニクの恋人』という小説があります。
これは文庫本で300ページちょっとの中編小説なのですが、この小説の文章はとても読みやすいのです。
なぜかというと、村上春樹さんが『スプートニクの恋人』の初稿を書き上げてから、時間をかけて何度も何度も書き直したそうです。
読者が読みやすい文章のリズムをつくるために、言葉の響きを目と耳で何度もたしかめているようです。
村上春樹さんは文章の「書き直し」に関してこのようなことを言っています。
でもそのボイスをどういうふうにして作るかというと、結局は「書き直し」なんですよね。最初まずひととおり書いておいて、それを何度も何度も書き直して、磨いていって、ほとんどこのまま永遠に手を入れ続けるんじゃないかと心配になるくらい手を入れていくうちに、だんだん自分のリズムというか、うまく響き合うボイスになっていくんです。目よりは主に耳を使って書き直していきます。
—『みみずくは黄昏に飛びたつ―川上未映子訊く/村上春樹語る―』川上未映子, 村上春樹著
なんだか村上春樹さんは小説家というより、文章作りの職人って感じです。
結局のところ、ストーリーが完璧にわからないから、何度でも読み返せる
最初にも書いたように、村上春樹作品のストーリーは、完璧には理解できません。言い換えれば、誰も理解できる「オチ」がないのです。
一般的な普通の小説ですと、起承転結がしっかりしていて、一度読んでしまえば、だいたい物語の「オチ」がわかってしまいます。
しかし、村上春樹の小説は、作品のどこを見渡しても、何度も読み返しても「オチ」らしきものが見当たりません。
「村上さん、『オチ』を入れ忘れたのかな」とも思うこともありましたが、意図的にそうしているのです。
作り手である村上春樹さん自身も「自分はよくわからない話を書いている」と自覚されているようです。
まとめ
世の中にはいろいろな小説があふれています。
ストーリーが似たり寄ったりで、わかりやすいハッピーエンド。文章も味気ない作品が世の中には多いな、と個人的に思っています。
簡単にこころに入ってくる分、簡単にこころの外に出て行ってしまうのです。
しかし、村上春樹さんの作品は洗練された美しい文章がこころのどこかにひっかかり、こころに居座り続けてしまいます。それが心地よいのです。
ハラハラドキドキのストーリーというより、こころが落ち着く文章。
結局のところ、これが村上春樹作品を読むいちばんの理由なのです。
村上春樹作品は小説じゃなくて「こころのお薬」ということかもしれません。